ウィステリア|読書と宮沢賢治

宮沢賢治さんが大好きな学生です。最近は近代文学にハマっています。

宮沢賢治の奥底に潜む「申し訳なさ」とは?

こんにちは。ウィステリアです。

宮沢賢治さんが大好きな学生です。

 

先日の水曜日はお盆休みということで、ブログをお休みしていました。

今回からまた月・水・日更新していきますので、よろしくお願いしますね。

 

今日のテーマは「賢治さんと『申し訳なさ』」です。

賢治さんの書くお話には、自己犠牲の精神を持つ人物がたくさん出てきます。

例えば、みんなのためなら自分の体だって何回焼いてもよいというジョバンニ。自分が溺れるとわかっていながら、ザネリを助けるカムパネルラ。

すごい考えだ、と思うと同時に、どうして賢治さんはここまでいい人であろうとしたのだろう?という疑問が生じます。

自分がもっと幸せになりたいとか、誰かに認められたいとか、そういう考えがあってもいいはずなのに、なぜなのでしょうか。

 

その疑問が解決したのは、ロジャー・パルバースさんの「宮沢賢治 銀河鉄道の夜を読んでいた時です。第一章の「生きることが贖罪だった」というところにある記述がとても的を得ていました。

ざっくりまとめると、「生まれながらに裕福だった賢治さんは、貧しい農民たちの苦しさを見ながら、『どうして自分だけ裕福なのだろう』と深く感じていた。その良心の呵責が、作品にも色濃く反映されている」ということでした。

 

それだ……!

確かに賢治さんは、質屋を継ぐのが嫌すぎてノイローゼ状態になったり、教師という安定した職をやめて農民になったりと、「裕福な生活」を徹底的に避けていました。

正直私は「そんなに辛い道を選ばなくてもいいのになあ……」と、賢治さんのことが心配になる時もあります。しかし本人にとっては、自分ばかりが良い生活をしている、という事実の方が耐えられなかったのでしょう。

「自分は大変な思いをせずに生きてこれたから、もっと大変な人に手を差し伸べなくてはいけない」という確固たる意志が、作品にも反映されていたのかなと思います。

 

現代に生きる私たちは、今の便利な生活が当たり前です。しかし、ご飯をお腹いっぱい食べ、やりたいことをして生きていけることは、賢治さんの時代では貴重でした。

その幸せを自覚し、苦しい人たちのために一生懸命な賢治さんの姿は、何十年も先の私たちに訴えてくるものがあります。

 

賢治さんの物語が現代でも愛されるのはきっと、今の人々に必要なメッセージが綴られているからでしょう。